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リネーム

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photo by pixabay

リネームとはなにか
登場人物


羽根木公園の坂道
名前がほしい11の坂
見晴らし台へ集まる3つの坂
妖精たちの棲む森で
大梅坂を囲む4つの坂
西瓜坂へつながる短い坂
これらの名前はどうして覚えやすいのか
あらためて、なぜ名前を付けるのか?
違和感を覚えるのはどの名前?
特殊性と一般性のバランス
水の精が暮らす森
部分と全体の調和


世界とは名前である
気功のネーミング宇宙
リネームはただの呼び替えではない
星座で新しい神話を作る?
世界をメインテナンスしよう






リネームとはなにか

ナポレオンは「人はその制服どおりの人間になる」と言ったとか。

おそらくこの法則はモノにも当てはまる。モノは名前通りの性質になる。月賦を「クレジット」と言い換えることで、消費者の購買行動が変わったそうだ。

チョッキをベストに、改築をリフォームにと、名前を変えればイメージが変わる。それはモノのポジショニング(位置づけ)が変わるからだろう。

このような現象を、私はリネーム(名付け直し)と呼んで注目してきた。

古い言い方を新しく呼び換えるだけでなく、そもそもこの世界には名前のついていないモノが無数にあるはずだ。

さらに、無形の行為や現象にいたっては、名前がないだけでなく、その存在にさえ気づかれていないものがあるだろう。

いずれにしても、物事を位置づけ直し、新しい名前を与えることで、世の中はまったく異なる様相を呈すると思う。

名前を変えることで、どれくらい世界は変るか? リネームの世界を読者と一緒に探訪してみたい。







登場人物
著者が語る部分に加えて、ところどころ助っ人の3人(2人と1匹)が登場する部分がある。ここで助っ人の紹介をしておこう。

モーリー先生(モ)
冷静で理性的、論理的、現実主義的で、話をわかりやすくまとめてくれます。

花ちゃん(花)
想像力豊かな女の子。躍動感にあふれ、柔軟な発想で話を広げてくれます。

いたずら猫ヤップ(ヤ)
ときどき話に割り込んでは混ぜっ返すやんちゃな子猫です。






羽根木公園の坂道

<名前がほしい11の坂>
世田谷区の羽根木公園を、よく散歩する。公園の南側は小田急線梅ヶ丘駅に面しており、こちら側が正面入口となる。北側の裏口を抜けると、京王井の頭線東松原駅が近い。

梅林が有名な公園で、その季節には多くの人が梅見に訪れる。梅林の中をそぞろ歩けるよう、小道がたくさん用意されている。羽根木公園パンフレットによると、正門から梅林を抜ける道には「大梅坂」という名前がついている。

また梅林の西側を迂回するルートは「小梅坂」である。そして梅林北側を東西に走る小道が「中学校坂」という。近隣の梅丘中学校へ抜ける道だからだろう。

羽根木公園は梅林だけでなく、その東側にある樹林も気持ちのいい散歩コースである。ここにも南北に1本、東西に2本の小道があって、気軽に森林浴を楽しめる。さらに東の端には「見晴らし台」と呼ばれる丘があって、そこに向けても3本のルートがある。

樹林と見晴らし台の間を南北に突っ切る通りは「根津山坂」と呼ばれる。これに公園北側の「東松原坂」を加えて、公園内5つの坂には名前がついている。しかし、梅林や樹林を抜ける小道、これらもみな坂道だが、そちらには名前がないようだ。

近所に住んでいるので、ちょくちょく羽根木公園を訪れる私としては、これらの小道にも名前がほしいと思っていた。特に気に入っているの道は、樹林を南北に走るもの。ここは歩いているだけで気持ちいいので、毎回かならず散策する。

添付の地図でご覧いただけるように、梅林周辺に5つ、樹林内に3つ、見晴らし台周囲に3つの、合計11本の坂道に名前がほしい。そこでリネーマーの私は、これらの小道に名付けを試みることとした。

もちろん世田谷区や公園管理事務所に許可をもらっているわけではなく、あくまでも私個人の散歩用の「俗称」にすぎない。

しかし、ネーミングのおもしろさを知っていただく格好の材料だと思う。お楽しみに。

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<見晴らし台へ集まる3つの坂>
そもそも名前を付けるとはどういうことか。「これ」と「あれ」とを区別するためにラベルを貼ること、それがネーミングの本質だろう。

したがって両者を混同するようなまぎらわしい名前は、本来の役割を果たしていない。逆に差異が際立つほど、よい名前ということになる。

さらに一般化するなら、無秩序に対してなんらかの「秩序」を与えることが名付けだと言えないか?

ではどういうものに人間は「秩序」を覚えるか。これは大きなテーマなのでここでは深入りしないが、いくつか思いつくキーワードを上げておこう。

すなわち「意味を感じる」「ストーリーを感じる」「愛着を感じる」その結果「覚えやすい」などだ。

さて、羽根木公園の小道である。A〜Eはすでに名前のある5つの坂だ。名前がほしい11本の坂道を、F、G、Hという3グループに分けよう。

Fグループ:見晴らし台へ集まる3つの坂
Gグループ:樹林を走る3本の坂道
Hグループ:梅林内にある5つの坂道

まずFグループから名前を与えていく。東側から順に朝、昼、夕として、それぞれ「朝顔坂」「昼顔坂」「夕顔坂」と名付けてみた。

朝坂、昼坂、夜坂でもいいのだが、より具体的な「形」をイメージするために、花の名前を与えた。

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<妖精たちの棲む森で>
ネーミングは名前を変えるだけでなく、その意味も同時に変える。

1991年(平成3年)、青森県は強い台風に襲われ、収穫前リンゴの9割が落ちてしまった。残った1割に「落ちないリンゴ」と名付けて1個1,000円で売り出したところ、縁起物として全国の受験生が競うように買ったとか。

人はモノではなく「意味」を買っている。商売に限らず、この世の中は、名前でできあがっていると言ってもいいくらいだ。

さて、羽根木公園の話を続けよう。Gグループの樹林を走る3本の坂道、である。この樹林を「妖精たちの棲む森」に見立てる。そしてアイドルグループの名前にヒントをいただき、名前を付けてみた。

東西に走る2本の小道のうち、北側を「乃木坂」、南側を「欅坂」と呼ぼう。それらを貫く南北の坂道、これが「秋葉坂」である。

そう名付ければ、この樹林をそぞろ歩くとき、アイドルにも似た妖精たちが、木陰から顔を出すような気がしてくるではないか。

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<大梅坂を囲む4つの坂>
ネーミングは世界に構造を与える。どのような構造の世界ができ上がるかは、付けられた名前次第ということだ。

たとえば個人の名前がすべて「AXPSZ2965778」のような記号である世界を想像してみる。地名も「RX地区座標2675-4883」のように表記される。

このシステムにはそれなりのメリットがあるし、こういう機能性や合理性を好む人もいるだろう。しかしその社会は、あまりヒューマンフレンドリーではない気もする。

そこまで極端ではないにしても、「東1丁目」のように方角と数字で表現される地名に、個性や愛情を感じるのは、なかなか難しいのではないだろうか。

さて、羽根木公園に戻ろう。Hグループ「梅林内にある5つの坂道」のうち、まずは「大梅坂」を囲む4つの小道に注目する。

大梅坂は羽根木公園の正門から入り、梅林のメインストリートとなる中央通路である。方角としては南西から北東に向けて斜めに走っている。大梅坂を取り囲むように、(多少傾いてはいるが)東、南、西、北方向に4つの小路がある。

これに、春夏秋冬の季節を割り振る。東側、これは大梅坂の右上方向だが、その小道を春の花にちなんで「桜坂」と名付けよう。

南は夏だから、西瓜(すいか)坂だ。西は秋で、紅葉(もみじ)坂、北は冬で、柊(ひいらぎ)坂とする。

Gグループの「秋葉坂」とHグループの「紅葉坂」がまぎらわしいと感じる人があるかもしれない。その懸念が強いようなら、Hグループをひらがな表記とする案もある。すなわち「さくら坂」「すいか坂」「もみじ坂」「ひいらぎ坂」である。

しかし、私はあえて漢字表記を採用したい。なぜか。それは、残った一つの坂道のネーミングと関係する。

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<西瓜坂へつながる短い坂>
ネーミングとは、無秩序に対してなんらかの「秩序」を与えることだと考えている。たくさんある要素同士の「関係」を明らかにするような名付けは、多くの場合うまく機能するだろう。

Fグループ(見晴らし台)では、太陽の位置を使って朝、昼、夕にちなんだ名前を付けた。Gグループ(樹林)は、妖精たちの棲む森と見立ててアイドルグループを連想させる名前とした。Hグループ(梅林周辺)では春夏秋冬という季節を名前に使った。

この作業によって、ただ小道の間に「構造」が生まれた。ネーミングにはいくつかの役割や効果があるけれども、このように無秩序な状況に対して構造を与えることは、名前の主要な機能のひとつだろう。

さて、残ったひとつの坂である。

公園正門と梅丘図書館の間にある入口で、西瓜(すいか)坂につながっている。距離は比較的短いが、ここも私にとっては大切な散歩ルートのひとつなので、ぜひ名前を与えたい。西瓜坂の南に位置することから、南瓜(かぼちゃ)坂と名付けてみた。

前項で、Hグループの坂道をひらがな表記でなく漢字表記を採用したいと述べた理由はここだ。西の瓜と南の瓜の対比がわかりやすくなるから、である。

それでもGグループの秋葉坂とHグループの紅葉坂がまぎらわしいと考えるなら、この両者だけをひらがな表記にする案もある。「あきば坂」と「もみじ坂」のように。

こうして名前が必要な11の坂には、すべて名前が付いた。

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<これらの名前はどうして覚えやすいのか>
記憶術に「場所法」あるいは「空間法」と呼ばれるテクニックがある。記憶対象を場所と関連づけて覚える方法だ。

自分の部屋や通勤路などよく知った場所を選ぶ。そして歩くルートに順番を振っていく。部屋なら「入口→ソファ→テレビ→デスク→ベッド→...」のように巡る順番を決めるのだ。そしてこのそれぞれに記憶対象を結びつけて覚える。

羽根木公園の11の坂道に名前を付けた手法は、場所法の応用とも言える。だからここまで読んで来れば、特に覚えようとしなくても、坂の名前を思い出せるのではないだろうか?

【見晴らし台】東から順に
F1.朝顔坂
F2.昼顔坂
F3.夕顔坂

【樹林の中】
G1.乃木坂(横断の北側)
G2.欅坂(横断の南側)
G3.秋葉坂(縦断)

【梅林周辺】東南西北の順に
H1.桜坂
H2.西瓜坂
H3.紅葉坂
H4.柊坂
H5.南瓜坂(西瓜坂の南側)

また、その気になれば、これらの坂道を場所法の基本として使うこともできる。覚えたい項目を、朝顔坂から順番に割り振っていけばいいのだ。

羽根木公園11の坂道への名付けから、リネームの必要性や重要性について、さらに考察してみよう。

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<あらためて、なぜ名前を付けるのか?>
ひとつのものが他のものとは違うことを明確にする、つまり「差異」を明らかにすることが名付けの第一の目的ではないか。

あるもの、それをAとしよう、そのAが、BやCやDとは異なることを示すために名前を付ける。したがって、Aのネーミングを考えるとき、命名者が自覚しているかどうかにかかわらず、BやCやDとの間に相互影響が発生している。

したがって、A、B、C、D間の差異が際立つような名前が、それぞれに割り振られることが望ましい。このとき名付けるべき対象がAだけだとしても、A単体で考えるのではなく、B、C、Dとの関係を調整しながら名前を考えることになる。

さらに、A、B、C、Dが同一のカテゴリー(たとえばカテゴリーX)に属するとき、別のカテゴリーYやZとの関係を考える必要も生じ得る。

羽根木公園の小道では、全体を大きく4つのカテゴリーとしてとらえた。

カテゴリー1:元から名前のある道
 (東松原坂、中学校坂、小梅坂、大梅坂、根津山坂)
カテゴリー2:見晴らし台周辺
 (朝顔坂、昼顔坂、夕顔坂)
カテゴリー3:樹林内
 (乃木坂、欅坂、秋葉坂)
カテゴリー4:梅林周辺
 (桜坂、西瓜坂、紅葉坂、柊坂、南瓜坂)

そしてカテゴリー内で個々の道の意味付けを行なった。カテゴリー2の道を東側から順番に朝昼夕としたり、カテゴリー4の道を東南西北の順に季節を対応させたのはこのためだ。

また、各カテゴリーをまたいでも区別がつきやすいよう、ネーミングに配慮した。たとえば、朝顔坂、秋葉坂、南瓜坂は、差異が際立つと考えるがいかがだろうか?

先にも述べたが、この観点においては、漢字表記では秋葉坂と紅葉坂の区別がややつきにくい。また西瓜坂と南瓜坂も混同する可能性がある。

したがって、全体を見渡したときには、これらをひらがな(あるいはカタカナ)表記で区別したほうが実用的かもしれない。「秋葉坂ともみじ坂」のように漢字とひらがなで分けたり、「スイカ坂とかぼちゃ坂」のようにカタカナとひらがなで区別するのも一案だ。

このように全体を俯瞰したうえで、システマティックに名前の調整を行なう。






<違和感を覚えるのはどの名前?>
名前の存在理由が、他との差異を明らかにするだけなら、A、B、Cや1、2、3のような記号を割り振るだけでもことは足りる。

名付けには、もう一つ別の役割があるのではないか。対象物に「イメージを与える」と言ってもいいし、さらには「意味を与える」と言えるような役割が。

羽根木公園カテゴリー1の「東松原坂」は、公園北側にある井の頭線東松原駅へ続く道だから付けられた名前と推測できる。「中学校坂」は梅丘中学校へ抜ける道、「大梅坂」「小梅坂」は梅林にちなんだ名前だろう。

「根津山坂」は、この公園のある丘がかつて根津財閥の所有地で、「根津山」と呼ばれていたことに由来するらしい。1956年に東京都立公園となり、1965年に世田谷区立公園になったとのこと。

これらの小道を、たとえば「A坂、B坂...」のように、あるいは「坂1号、坂2号...」のように名付けることもできる。それでもある程度は役割を果たすはずだが、それでは「イメージ」が湧かない。そこには「意味」が足りない。

イメージや意味を付与することもまた、事物を「秩序化する」というネーミングの意義のひとつなのだ。

ところで、ここまで理解したうえで、私が名付けたカテゴリー2〜4の名前を俯瞰するとき、どこか違和感を覚える部分がないだろうか。


カテゴリー2:見晴らし台周辺
 (朝顔坂、昼顔坂、夕顔坂)
カテゴリー3:樹林内
 (乃木坂、欅坂、秋葉坂)
カテゴリー4:梅林周辺
 (桜坂、スイカ坂、もみじ坂、柊坂、かぼちゃ坂)


どの名前に違和感を覚えるか。そして、その違和感はどこから来るものか?






<特殊性と一般性のバランス>
公園のように長い期間、多くの人に使われる施設の場合、ネーミングの根拠にある程度の一般性が求められるだろう。

ところが、名前はもともと個別性を表現する、つまり特殊性をアピールするものだ。ここに特殊性と一般性のバランス感覚が求められる。

さて、羽根木公園の11の小道に付けた名前を俯瞰してみよう。


カテゴリー2:見晴らし台周辺
 (朝顔坂、昼顔坂、夕顔坂)
カテゴリー3:樹林内
 (乃木坂、欅坂、秋葉坂)
カテゴリー4:梅林周辺
 (桜坂、スイカ坂、もみじ坂、柊坂、かぼちゃ坂)


自分で命名しておいて言うのも妙な話だが、私はカテゴリー3に含まれる坂の名前(乃木坂、欅坂、秋葉坂)に違和感を覚える。

その違和感は「名前そのものが良くない」という絶対的なものではなく、カテゴリー2や4に含まれる名前とのバランスという相対的なものである。

カテゴリー2は方角と「朝、昼、夕」を対応させており、カテゴリー4は方角と季節を対応させた。しかるにカテゴリー3だけは、命名の根拠が希薄であり、しかもアイドルグループ名にちなんでいるため、時代性を反映しすぎているとも感じる。

この樹林を「妖精の棲む森」に見立てたところまではよいとして、妖精をアイドルと結びつけたところに飛躍があったということか。特殊性と一般性のバランスを欠いているとも言えるだろう。

では、どうすればカテゴリー3の違和感を解消できるだろうか?






<水の精が暮らす森>
カテゴリー3の樹林を「妖精の棲む森」に見立てるところまでは、ひとまず「イキ」としよう。

その妖精をアイドルではなく、たとえばギリシャ神話や「不思議の国のアリス」のようなファンタジーに求める方法がある。あるいは日本民話や河童などの妖怪も参考にできる。中国伝説の動物である鳳凰、麒麟、朱雀などからもヒントを得られる。

しかし、カテゴリー2が花の名前、カテゴリー4が樹木や果実の名前であることを考慮し、カテゴリー3では動物もしくは自然現象を題材に取ることを考えてみた。

この樹林には、東西に走る2本の道と、それらを南北に貫く1本の道がある。東西に走る2本は北側の道が丘の上を、南側のものが丘の下を横切っている。したがって丘上を「天」、丘下を「地」と考えることができる。

動物であれば、天は鳥類、地は地中(あるいは海中)の生物が思い浮かぶ。そして南北に貫く道は天地人の「人」と考えて、霊長類に由来する名前を与えることもできる。たとえば「ウグイス」「モグラ」「オランウータン」のような動物だ。

しかしそれでは「妖精」から少し遠い。そこで自然現象を題材として、「水の精」が暮らす森と考えてみてはどうか。ここで雨かんむりの付く文字を使ってみる。

天に浮かぶのが「雲」、地を濡らすのが「露」、天地を貫くのが「雷」とすれば、坂道には以下のような名前を付けられる。

雲の坂(丘上を東西に走る小道)
露の坂(丘下を東西に走る小道)
雷坂(上記2本を南北に貫く小道)

「乃木坂、欅坂、秋葉坂」のときに感じた違和感は、ぐっと薄らいだのではないか?






<部分と全体の調和>
では、ここで羽根木公園の坂道ネーミングについて、あらためて整理しておこう。
※地図出典:世田谷区ウェブサイト(羽根木公園パンフレット)


【見晴らし台】東から順に
F1.朝顔坂
F2.昼顔坂
F3.夕顔坂

【樹林の中】
G1.雲の坂(丘上を東西に走る小道)
G2.露の坂(丘下を東西に走る小道)
G3.雷坂(上記2本を南北に貫く小道)

【梅林周辺】東南西北の順に
H1.桜坂
H2.西瓜坂
H3.紅葉坂
H4.柊坂
H5.南瓜坂(西瓜坂の南側)


私が散歩するためには、このネーミングで十分だ。しかし、もし一般向けに公開するのであれば、西瓜、南瓜、柊など、読みが難しいものにはルビをふるほか、イラストで補うことも必要だろう。

個々の名前の良し悪しも大切だけれども、それらが公園全体の中で、互いに調和を保つことも重要だ。そうすることで道の名前からストーリーが生まれ、覚えやすさや親しみやすさにつながると考えるからだ。

名前が物語を生む。このことについて、次回は別の事例で考えてみよう。

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世界とは名前である

<気功のネーミング宇宙>
中国に伝わる養生法が気功である。たくさんの流派があり、数えられないほどの功法が存在する。それらの中には、ユニークな名前を持つものもある。

ここでは「撹海漱津」を紹介しよう。日本語では「かくかいそうしん」と読む。加齢によって唾液が少なくなることに対処する功法である。

唾液は醴液(れいえき)と呼ばれ、健康にとって重要なもの、大切な生命の水と考えられてきた。「醴」とは甘酒のことである。功法の詳細は割愛するが、以下のような4つのステップを踏んで練習する。

第1ステップは叩歯(こうし)。歯を軽くカチカチと数十回噛み合わせる。そして第2ステップが赤龍撹海(せきりゅうかくかい)。舌で口の中を何回もかき回すことで、多くの唾液が分泌される。

第3ステップは鼓漱(こそう)。大量の唾液を使って口をクチュクチュと漱(すす)ぐ。第4ステップは呑津(どんしん)。たまった唾液を3回に分けて飲み込む。このとき意識を下腹部に送り込み、気を沈める。

注目したいのは、第2ステップの「赤龍撹海」である。舌を赤い龍に例えて、それが口という海を撹拌する、という意味だ。そこでは口腔という小さな空間を大海原に見立て、赤い龍がのたうつという壮大なドラマが演じられている。

口の中を舌でぐるぐるかき回すという、言ってみればつまらない動作が、赤龍撹海と呼ぶことでスケールの大きい高尚な健康運動となる。まさにネーミングのマジックと言っていい。

それは、麻雀の役名における九蓮宝燈(チュウレンポウトウ)や嶺上開花(リンシャンカイホウ)にも似た、美しく格調高い世界観ではないか。雀卓をただのテーブルと見るか、それとも小宇宙と見るか。

名前が変われば、世界はまったく違う場所になる。ここにリネーム(名付け直し)のおもしろさがある。







<リネームはただの呼び替えではない>
舌を赤い龍に口を大海に例えるのは、比喩の一種で、メタファー(隠喩)と呼ばれる技法だ。メタファーは、リネーム(名付け直し)の第一歩であるとも言える。メタファーを駆使して森羅万象を描くのが詩である。したがって詩とは、リネームの芸術とも表現できる。

リネームは、ただ呼び方を別の表現に替えるだけではない。口内で舌をぐるぐる動かす運動は、それを「龍が海で暴れまわる」と感じることで、まったく違う意味を持ち始める。呼び名が変われば、人間の認識は変わるのだ。

したがって、メタファーを体系的に使うことで、この世界をまったく違う物語として生きることができる。これに加えて「くくり方」を変えるなら、世界の見え方は一層新鮮な、場合によっては新奇なものとなり得る。

たとえば、犬だ。セントバーナードも、アフガンハウンドも、豆柴も、チャウチャウも、チワワも、ずいぶん形状の異なる生き物が、みんな「犬」という名前でくくられている。これは生物学的な分類である。

言うまでもなく、このくくり方は絶対のものではない。生物をほかの基準で分類することも可能だからだ。体長1m未満の生き物と1m以上の大型生物で分けることもできる。この場合、馬とセントバーナードは同じグループに属するし、カブトムシとチワワは仲間になるだろう。

また、肉食や草食など食性で分類もできる。身体の色で分けてもいい。樹上や水中など生息環境で分けることもできるし、名前の頭文字で分類することも可能だ。つまりグルーピングの基準は、便宜的かつ暫定的なものであり、多分に恣意的なものでもある。

しかし私たちが物の名を呼ぶとき、その名称が便宜的、暫定的、恣意的な分類基準を前提として付けられていることを、通常は意識しない。

ここにリネームの重要性が潜んでいる。私たちが認識している世界は、専門家や長年の慣習によって決められた分類をベースとして付けられた「名前」によって構成されている。その「くくり方」を変えれば必然的に名前も変わらざるを得ない。

そして分類基準や名称の変わった世界は、もとの世界とは違うものとして認識され得る。私たちが「固定的」で「不動のもの」ととらえている現実は、じつは「いろいろ変えられる」「柔らかな」ものに見えてくるのではないだろうか。







<星座で新しい神話を作る?>
いっかくじゅう座、いて座、おおいぬ座、オリオン座、ケンタウルス座、はくちょう座、ペガスス座などなど...。星座は、夜空に雑然と配置された星々を線で結び、それぞれに意味を与えた連想の物語である。

エジプト、メソポタミア、ギリシャ、中国など、さまざまな地域や時代に応じて、異なるグルーピングや星座名が用いられたという。ちなみに、ギリシャ人が設定した星座にはみな神話がついている。

星座を構成する星は、たまたま同じ方向に見えるだけであり、地球からの距離もまちまち。つまり星座名は恣意的に付けられたものにすぎない。当然ながら、現在用いられている「88星座」以外のつなぎ方および名称は無数に考えることができる。

事実、さまざまな天文学者が、新しい星座を設定し王侯貴族にちなんで名付けたり、キリスト教の伝聞に基づいた星座を設定したこともあった。それらは、現在ではどれも使われていないという。

星をつなぐパターンをまったく変え、新しい星座名を付けて、新しいストーリーあるいは神話を作ることはもちろん可能だ。もし新しい星座体系ができたなら、夜空はこれまでとは違う「意味」に満たされた、新しい世界を私たちに見せてくれるだろう。

このような「構成要素の組み換え」に基づくリネーム(名付け直し)には、世界を変える力があると考える。アリストテレスが言うように「全体は部分の総和に勝る」からだ。

全体には、部品をただ寄せ集めただけではない「構造」が存在する。リネームには、構造を変える力があるのだ。







<世界をメインテナンスしよう>
ジャック・ラカンの言うように、我々は現実を言語で表現しきることはできない。ことの初めから、事物や現象に与えられた名前は不完全なのだ。

しかも現実界は時々刻々と変化している。ここにリネーム(名付け直し)の必要性がある。

姿かたちや役割を変え続ける現実界に対して、私たちは不断の努力でそれを描き直す責任を負っているのではないか。リネームとは、世界のメインテナンスなのだ。

***(以下wikipediaより要約)***
<ジャック・ラカン - 言語活動と現実界>
たとえばある事件に遭遇した人々は、口々にその事件を語る。これは、その大事件という現実的なこと(現実界)を、言語(象徴界)をもって描き出そうとしているわけである。

証言者Aは事件の決定的瞬間を語り、証言者Bは事件の背景に秘められた事情を語るなど、あらゆる角度から証言がなされる。

これらを集めて「事件の全容を解明しよう」という動きが起こったりする。しかし、マスコミ用語としては耳に親しい「事件の全容」なるものは、実際には語り尽くされるのは不可能である。

どうがんばっても言葉では現実そのものを語ることはできない。「言語は現実を語れない」のである。

ところが同時に、人は「言語でしか現実を語れない」。ゆえに人は、より的確な言葉を探したり、より多くの言葉を重ねていくことによって、少しでも現実に近いものを描き出そうと奮闘する。それでも、言語活動=現実となる瞬間はない。
これが象徴界と現実界が分かたれる一面である。われわれは一生、それに対する抵抗とあこがれの間で揺れ惑う。
***(要約ここまで)***

投稿者 kurosaka : 2017年10月26日