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広告コピーとしての般若心経

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ローカルとメタの関係図


広告コピーとしての般若心経
PDF版「広告コピーとしての般若心経」




これはガマの油だ
広告屋の目で般若心経を読むと、その構文はコピーライティングに通じるものがある。不謹慎に聞こえるかもしれないけれど、ガマの油売りやバナナの叩き売りなど露天商の口上にも似た、活気あふれるセールストークに読めるのだ。現代で言えばテレビショッピングの話法か。

般若心経の解説書にもいくつか目を通してみた。どれも五蘊、十八界(六根、六境、六識)、十二縁起、四聖諦、八正道など仏教の基本コンセプトについて多くのボリュームを割いている。

もちろん解釈するために必要な知識ではあるけれど、それらの基本概念を知ったから般若心経がわかるかと言えばそうではない。なんだか中途半端な人生訓を聞かされたような、じつにモヤモヤした気分になるのだ。少なくとも私はそうだった。

細かい仏教用語はひとまず置いて、全体としてこのお経がどういう構造を持っているかに着目するとどうなるか。シロウトの解釈なので、トンチンカンな間違いが含まれる可能性は大いにあるとお断りしたうえで、広告的な視点で般若心経を概観しよう。



6つのパートに
最初に般若心経を、A〜Fの6パートに分割する。そして各パラグラフにタイトルをつけた。

A.幻想性
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄

B.二重構造
舎利子 色不異空 空不異色
色即是空 空即是色 
受想行識 亦復如是 

C.メタサイド
舎利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界
無無明 亦無無明尽 
乃至無老死 亦無老死尽
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

D.視点移動
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罜礙
無罜礙故 無有恐怖
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提

E.賛美
故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪
是無上呪。是無等等呪。
能除一切苦。真実不虚。
故説般若波羅蜜多呪。即説呪曰。

F.呪
羯諦羯諦 波羅羯諦
波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経



誰が誰に何を売るか
広告には「売り手」と「買い手」と「商品」がある。ここでは売り手が観音さま、買い手は舎利子、商品は〈呪〉という構図になっている。〈呪〉がいかに素晴らしいかを説くプレゼンテーション、つまり売り口上、セールストーク、広告コピー、それが般若心経なのだ。ちなみに舎利子はゴータマ・ブッダ十大弟子のひとりシャーリプトラのこと。

では商品である〈呪〉は何かというと、呪文、真言、つまりマントラである。日本語のお経では「ぎゃーていぎゃーていはらぎゃーていはらそうぎゃーていぼーじーそわかー」と発音される。

玄奘三蔵がプラジュニャーパーラミター・フリダヤ(般若波羅蜜多心経)をサンスクリット語から中国語へ翻訳したとき、この〈呪〉部分だけは意訳ではなく音訳した。文の意味ではなく音のほうに「効能」があるためだ。参考までに原文のサンスクリット音を英語表記すると「Gate Gate Paragate Parasamgate Bodhi Svaha」となる。これがどういう意味かは、本論末尾の「まとめ」で取り上げる。

ではマントラは何のためのものか。それは般若波羅蜜多という名の瞑想法に使うものである。ただ、般若波羅蜜多瞑想法では長たらしいので、本論では「HAN瞑想」と略す。



全体はこんな流れ
全体構文をまず明らかにしておこう。

A.幻想性
観音さま(観自在菩薩)がHAN瞑想を深く行じていた(行深)とき、あることに気づいた(照見した)。それは「五蘊皆空」である。そしてすべての苦しみから解放された(度一切苦厄)と、最初のセールスコピーが語られる。五蘊皆空(ごうんかいくう)がどういう意味かは後述するが、簡単に言うとこの物理世界の幻想性に気づいたのだ。

B.二重構造
観音さまが舎利子に向かって、この世界は色(物理世界)と空(情報世界)の二重構造であると説いている。そして両者は別々のものではなく一体に結びついていると。

C.メタサイド
色(物理世界)に対する空(情報世界)の特徴を説明している。本論では物理世界をローカルサイド、情報世界をメタサイドと呼ぶ。

D.視点移動
ローカルサイド(物理世界)からメタサイド(情報世界)へ視点移動するすぐれた方法としてHAN瞑想が紹介される。

E.賛美
〈呪〉がどんなに素晴らしいものであるかを、口を極めて称賛する。その褒め言葉は「大神」「大明」「無上」「無等等」「能除一切苦」「真実不虚」など、これでもかこれでもかと大仰な美辞麗句を並べ立てる。セールストークのクライマックスである。

F.呪
いよいよ商品である〈呪〉を披露する。

こうして見ると、般若心経は商品広告かパンフレットのような文章であることがわかる。ただ、そこで語られる「世界の二重構造」は、注目すべき貴重なアイデアである。



五蘊とは何か
五蘊は「色、受、想、行、識」のこと。どの解説書を読んでもわかりにくくて、なんだかすっきりしない。そこで伝統的な仏教の解釈とは微妙に異なるが、以下のようにとらえてみた。これなら私には理解しやすい。

1.色:物理世界
2.受:五感を通じて入力される感覚情報
3.想:感覚情報に対する意識の反応
4.行:感覚情報に対する身体の反応
5.識:最終的に形成される脳内情報(この世界はこういうものだという認識)

そして、これらはみな「空である」というのだ。空とは「むなしい」とか「何もない」という意味ではなくて、情報のことである。

たとえばDVDで映画を再生する。そこで鑑賞する映像や音を「色」の世界としよう。DVDディスクに収録されているデータ、つまり情報が「空」である。そう考えれば「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」は完全に納得できる。

DVDの場合は視覚と聴覚だけだが、私たちが暮らす物理世界は味覚、嗅覚、触覚なども含まれる「立体映画」である。そして「受想行識 亦復如是」、つまり感覚情報、意識反応、身体反応、それらの総和である脳内情報まで、すべてデータにすぎないというのが般若心経の世界観なのだ。

般若心経で「色:空」と呼ばれる概念は、このように「物理:情報」と言い換えられる。他の用語なら「娑婆:極楽」「穢土:浄土」「此岸:彼岸」「この世:あの世」「現世:涅槃」などで対比することもできる。物理学者デヴィッド・ボームの「外在秩序 Explicate order:内在秩序 Implicate order」にも共通点が感じられる。

本論では前者にあたる物理世界を「ローカルサイド」、後者の情報世界を「メタサイド」と呼ぶことにする。私たちが物理的現実と感じる現象世界はローカルなものであり、自分のパソコン上のモニタであるとする比喩だ。そこに映し出される元データがある情報世界を、インターネット上の仮想空間(メタバース)にたとえるわけだ。



メタサイドはどんな世界か
Cの段で語られるのは、メタサイドがどんな特性を持つかである。般若心経を理解するにあたりもっとも難しく誤解の多い部分だろう。実際、般若心経の解説書には、この部分について「お釈迦様の教えが正しく伝わっていない」と述べるものまである。そう考えるのも無理はない。なぜなら仏教の基本教義をことごとく否定しているからである。

けれども、メタサイドこそゴータマ・ブッダの悟りの中核部分だと私は考える。それは迷いの世界にいる世人にとって未知の領域ゆえ、深い瞑想体験(つまり般若波羅蜜多)がなければなんのことかわからないはずだ。

生まれることもなく滅することもない(不生不滅)、汚くもなく綺麗でもない(不垢不浄)、増えるわけでも減るわけでもない(不増不減)。データ=情報とはそういう性質のものだよと、観音さまは舎利子に教えている。

だからデータの世界は(是故空中)、物理世界ではない(無色)、感覚情報も意識反応も身体反応も脳内情報もない(無受想行識)、感覚器官や感覚情報もない(無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法)、となる。

情報世界であるメタサイドに感覚 "情報" がないのは矛盾するように見えるが、ここは言葉の使い方が難しいところ。ローカルで扱う情報と、その元データであるメタサイドの情報を区別して考えるなら矛盾はなくなる。ローカルの情報は局所的かつ一時的なものであり、脳という「DVDプレイヤー」が作り出した幻影である。

メタサイドにはありとあらゆる元データが存在し、そのごく一部を組み合わせてローカルサイドで「上演」しているのだ。したがってローカルサイドの情報は有限で、生まれたり滅したり、汚かったり綺麗だったり、増えたり減ったりするけれども、メタサイドではそういうことは一切ない。DVDの映画では男女が愛憎ドラマを演じていても、その元データはただの信号であるようなものか。

眼界と意識界は「六識」の1番と6番。両者を乃至でつなぐことで「眼界から意識界まで全部」が無い(無眼界乃至無意識界)と述べる。

無明と老死は十二縁起の最初と最後で、これも両者を乃至でつなぎ「無明から老死まで全部」としている。そして無明は無く無明が尽きることも無い(無無明亦無無明尽)、老死は無く老死が尽きることも無い(無老死亦無老死尽)と語る。

わかりにくい表現だが、ローカルにあるような無明はないけど、データサイドには何でもあるので無明はいくらでも作り出せる、老死も同様、と解釈すればすっきりする。

四聖諦も無い(無苦集滅道)、智慧もなく得ることも無い(無智亦無得)、それはもともと得ることがないからだ(以無所得故)。データサイドは生まれることも滅することも、増えることも減ることもない、つまり「得ること」自体がないのだ。

ここで六識、十二縁起、四聖諦について細かく説明する必要はない。なぜか。それらはすべてメタサイドには「無い」からだ。つまりこのパラグラフで言わんとするのは、ローカルサイドでは重要な六識、十二縁起、四聖諦などの概念も、メタサイドでは何の意味もないよ、ただの信号にすぎないよ、ということだ。

逆に表現すると、六識、十二縁起、四聖諦などの幻想性に気づくことこそが悟りである。つまり仏教知識は「舟」のような乗り物にすぎなくて、大事なのは彼岸へ「渡ること」なんだよと教えているのだ。向こう岸(彼岸)へ渡ってしまえば、もう舟は必要ない。

Cのパラグラフをローカルサイドの記述と捉えるか、それともメタサイドと考えるかで般若心経の理解は決定的に変わる。これを混同すると、処世訓めいた意味不明の解釈になってしまうからだ。仏教知識と整合性を取ろうとするからおかしなことになるのだ。



HAN瞑想という乗り物
ここから「商談」はクロージングへ向かう。「D.視点移動」のパラグラフでは、HAN瞑想によって心のこだわりがなくなる(依般若波羅蜜多故 心無罜礙)、つまりそれまで学んできたローカルサイドの知識にとらわれなくなる。

そしてとらわれないから恐怖はなくなり、これまで現実と思っていた物理世界がじつは夢だったと気づく(無罜礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想)、それこそが究極の浄土つまり情報世界=メタサイドなんだよ(究竟涅槃)。

悟った人はみなHAN瞑想によって、このすばらしい境地に至ったのだよ(三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提)とたたみかける。

ようするに、HAN瞑想を実践してローカルサイドからメタサイドへ視点を移動しなさいと教えているのだ。これまでと違うものの見方をしなさい、それが悟りだよ、と。

そしてEの段で大袈裟なキャッチフレーズを並べて褒めちぎり、Fにおいて売り物である〈呪〉が披露される。



まとめ
般若心経はつまり「マントラを使った瞑想法」のパンフレットだったのだ。これに似た宗教を、私たちはよく知っているではないか。法然の開いた浄土宗である。浄土に往生するために、ただひたすら「南無阿弥陀仏」を唱える。いわゆる専修念仏(せんじゅねんぶつ)だ。

般若心経の場合は、

羯諦羯諦
波羅羯諦
波羅僧羯諦
菩提薩婆訶

というマントラによって物理世界から離れなさいと説く。

先にも述べたように、この〈呪〉は音に効能があるので意味は訳さないことが慣例になっている。それをあえて訳すと以下のようになる。一般的な訳文とは少しニュアンスが異なるけれど、ここまで述べてきた流れに沿った翻訳である。

羯諦羯諦 Gate Gate 「渡れ 渡れ」
波羅羯諦 Paragate 「向こう岸へ渡れ」
波羅僧羯諦 Parasamgate 「向こう岸へ完全に渡れ」
菩提薩婆訶 Bodhi Svaha 「目覚めを成就せよ」

ところで、ローカルサイドからメタサイドへの視点移動については、いろんな分野で同様の現象に気づいた先人がいる。アートではメメントモリ(死を思え)、スポーツではゾーン、気功における入静などがそれだ。

また広い意味では、いわゆる体外離脱体験もこれに相当する。臨死体験、感覚遮断、幻覚剤、脱水、睡眠障害、夢、外傷性脳損傷、脳への電気刺激などによって、自分が肉体から抜け出た世界を体験することである。

私自身もメタサイドについて呼吸法との関連で著書を出している。『呼吸研修テキスト〜水に学ぶ25のレッスン〜』の第12章主客転倒だ。そこではSOシフト(主客転倒)という概念を用いて、視点移動するための具体的なボディワークを紹介している。ご興味ある方は参照いただきたい。

以上、広告コピーとしての般若心経でした。




『呼吸研修テキスト〜水に学ぶ25のレッスン〜』


投稿者 kurosaka : 2023年2月13日