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珠玉のエッセイ

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広島人とはなにかという例え話をします
タンタンミリュー


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心臓物語〜律動し吐息する路地裏〜







広島人とはなにかという例え話をします
(中近礼)

広島人とはなにかという例え話をします。

ただしこの場合の広島人とは広島県西部、旧浅野藩安芸地方のことで、譜代の福山城のある東部の旧福山藩を広島市の人は広島と思っていません。

風土も文化もわたしの故郷で広島市のある安芸側とまったく違い、広島県でも備後は岡山の文化ですから、ここで広島人というのは安芸人です。そのことを押さえないでは広島人の話もあったものではありません。

その安芸の広島人とはなにかのたとえ話です。

道路工事で「立ち入り禁止」の札があり、ただし工事は中断され警備員は居るが、そこを通らないとすごく遠回りになる場合。

(1)東京の人は(東北甲信越、北海道の人も)、「立ち入り禁止」を見た瞬間に遠回りに向かいます。

(2)京都の人は即座に「禁止」を無視して通過します。すると警備員が「立ち入り禁止でっせ」と声をかける。通過中の人は眉をひそめて「通れるのになんやけったいな」と言い返す。自己主張するのが京都人です。

(3)大阪人は周囲を見て問題のないことを確認して通過します。警備員と目が合うと「工事してへんさかい通りまっせ」と声をかけ、警備員も「きいつけて行きなはれ」とかなんとか和やかな絡みがあるのが特徴です。

(4)広島の人も周囲を確認してから通過します。警備員は気づかないふりをして目を合わせません。なにごともなかったかのように静かに終わるのが広島です。

もうひとつ例を挙げます。

東京の人はどんなバス停でも必ず列を作って待ちます。京都の人は作りません。バスが来ると我先に乗り込みます。簡単に言えば自分勝手です。

「はんなり」という言葉がありますが、十数年京都に住み、セレブやエリートの京都人を含めじつに多くの京都の人と交際しましたが、「はんなり」の人は見たことがありません。

京都の人は何を考えているのかわからないと東京の人はよく言いますが、わからないのではなく京都の人は考えをストレートに出しすぎるのでほかの地方の人は驚いてそれがホンネだとは思えないのです。

ぶぶ漬け(茶漬け)の例え話がありますが、それはフィクションで、客に帰って欲しいとき京都の人ははっきり言います。「今から用があるのですんまへんなあ」などと言って。

大阪の人もバス停で列を作らない。ただし乗るときに周囲を見て、譲り合ったり、譲られた人は「おおきにな、年寄りやないんやけどな」などと絡みがあります。

広島の人も列なしで、乗るときに周囲を見るが、暗黙の了解で声掛けはしません。

東京の場合、通勤などで長時間乗る人が多く、広島のようにのんきなことを言ってはおられないという事情もあるでしょうし、さいきんは大阪や広島でも列のできるバス停がある。しかしつぎのような例もあります。

公園の滑り台の上り口で広島だと子どもたちが塊になって列をつくりません。東京から移り住んだ大人は驚いて「並ばないといけないでしょ!」と叱ります。

並ばないのは子どもたちの中に暗黙の了解があるからで、年長の子、年少の子、男の子、女の子、身体の強い子、弱い子、優しい子、意地悪な子、じつにいろんな子がいてそこに小さな社会があって自然に順番の決まる人の絡みを学んでいるのです。

強制のない秩序です。それを並んで列にすると学ぶものがなにもありません。

東日本の人と接すると人間関係の基本ができていないと感じることが多いのですが、広島の滑り台の例を「洗練」と見るか「野卑」と見るかで評価は真逆になります。

幼時から滑り台で人の絡み方を学んでいない東京の人は、議論となると相手がどう考え、どう言おうとするかを探ろうとせず言葉だけの応酬で果てしのない議論になることがままあります。

広島では人と組んで何かしようとするとき、とことん詰めて話す必要もなしに阿吽の呼吸で進行することがある。

わたしの妻が二年間埼玉に住んで広島に帰ったとき、家の電気工事その他を頼んだら、工事の人となんら打合せすることなく施主とのアイコンタクトでどんどんはかどるので妻は驚いていました。

東京では平気で客を並ばせる飲食店などがふつうにあるのを広島人は奇妙に思うのですが、本来の広島の店はそんな無作法なことはしません。

客の方も待ってまで入店しようとは考えず数分待つ程度なら店の前にやはり塊になり列はできず、どうしてもしばらく客に待ってもらう場合は待ちリストに記名して呼び出すか番号札を配ります。

しかし今はグローバルな規模でデジタルなので、コミュニケーションの方法も地域差がなくなり広島らしさもなくなりつつあるでしょう。滑り台の下に広島の子たちも無言で列を作るような時代かもしれません。

人の絡み方が不得意という点では東日本では田舎町を歩いていると人目が気になることが有り、空き地や畑のあぜ道で風景を見たり写真を撮ったりすると住民にいきなり「私有地なので入らないでください」と言われて驚くことがあります。

言い方もあると思うのですが、そもそも広島では入れるところはどこでも入れ、入って欲しくないところは物理的に入れなくしてあります。

そんな東日本なので東日本の人は挨拶にこだわるのかもしれません。広島の安芸地方の近所付き合いは基本挨拶なしで、とくに瀬戸内海の海際で顕著です、東京でマンションに住むと隣近所の連帯があったりするらしいのですが、広島にはありません。住宅地の町内会に参加しないからといって文句を言われることもない。

京都では隣家の人の職業を知らないのは常識ですが、広島も同じで、ただし京都の人が他人に無関心というのに対し、広島では人にあえて干渉しないという気配りがある。

わたしは一日に船が数便しかない瀬戸内海の小さな離島にヨットやボートで行ったことがありますが、上陸し港に島民が居てもいっさい挨拶無しが不思議な感じでした。

だからといって愛想がないのではなく、話せば旧知の仲のようにすっと親しくなれるのです。広島ではよけいなことはしないアイコンタクトです。

アイコンタクトで思い出しましたが、広島の象徴的な特徴として車の流れが速いということがある。わたしは世界中と日本の各地で車の運転の経験をしてきたので日本の車の流れが世界レベルで遅いことを知っています。

とくに東日本で顕著です。九州四国沖縄ものろのろで、それはドライバーがぼんやりしているからです。東京で渋滞が多いのは人が店の前で行列を作るのと同じです。

広島では車同士がたがいに動きを読み合いながら遅い車を置いて急ぐ車はどんどん先に行きますから全体の流れがスムーズで速い。車同士の動きを読んで計算して走るから流れるので、めちゃくちゃなだけでは流れません。

東南アジアでは我先のめちゃくちゃゆえの渋滞がよく見られます。滑り台の下でこどもが塊になっていてもスムーズに順番が決まっていくのと、殺到して混乱するのとの違いです。

考えても見てください。たくさんの車が走っていればドライバーにはぎこちない運転の人も居れば老人も居れば妊婦も居ればヤクザも居れば身内が危篤で大急ぎの人も居ればぼーっとしている人もいればテレビを見ながら運転する人さえいる。それが全員同じ動きになればどうなるかわかるでしょう。東京の流れはそうなっています。

東京の人が転勤で広島に来ると、広島の人は運転がめちゃくちゃで怖いと馬鹿にしたように言うことがありましたが、アイコンタクトで読みながら状況判断しながら走っているので行列にならないという話です。

フランスの交差点には信号機のないロータリーが多く、車がくるくる回りながら川の流れのように走る中にすっと割り込んでゆくものですが、東京の人にはできないんじゃないかと思うことあります。

東日本では右折禁止の交差点で右折しようとする車が居るとほかの車が必ずクラクションで注意しますが、広島ではそんな無駄なことはしません。

東京では人は「みんないい人」、ドライバーはみんな「善良なドライバー」でなければいけないと考えるプレッシャーのようなものがあり、広島では「世の中にはいろんな人が居て当然」と冷めて現実的に考えます。

広島の挨拶なしの仕組みも「いろんな人が居るのが世間」なので十把一からげには絡まないということもあるのかもしれません。

東京近辺で車を運転すると、おとななのかと思うような事例も多いのですが、横須賀市内でバスに乗ったときの経験で、交差点の手前で渋滞になり乗っていたバスが動かなくなったことがある。

寸分動かないので何があったのだろうと思い、やっと交差点にたどり着いて理由がわかりました。交差点の向こう側も車が多く、青信号でバスが交差点を通過する前に左右の道路から流れてきた車が交差点の向こうに入り、青信号になっても向こう側に行けなくなるのです。

交差点のたびにその状況で進まなくなっている。広島のバスだと左右の車の流れを牽制しながら青信号で向こう側にねじ込みますが、横須賀の車はそういう「融通」がなく車同士の読み合いがないのでひたすら動かない。

運転手全員が機械でロボットみたい。そもそも広島ならそんな渋滞があれば左右の車もほかの通りに逃げて分散するのではないでしょうか。

わたしはバスを諦め、運転手に電車の駅はないのか問うと、あるというのでバスを降りることにしました(ほかの乗客は平然と乗ったままでした)。しかし渋滞でバス停まであと十メートル、五メートルとにじり寄りながら降ろしてくれと言っても降ろしてくれないのでした。

そういえば広島市は日本一の路面電車王国で有名ですが、ひところ市電が信号無視すると市民が告発し問題になったことがありました。

市民とはもしかすれば東京からの転勤の人だったかもしれませんが、現実の状況のすり合わせが理解できなかったのかもしれません。

いまは信号機の方が電車の動きにシンクロしているので信号無視の心配はない。それでも広島駅前を種々のタイプの電車がひっきりなしに発着する現場を見ればユーズーの意味が分かります。

広島からでもアジアの国経由で世界中どこにでも行けるのでわたしは広島空港から海外に離発着することが多いのですが、小さな空港なので帰路通関も簡単で飛行機が着陸してから十五分とかからず広島市内行きのリムジンバス乗り場に着いてしまいます。

きれいなバスが待っていてくれて乗れば十数人の客を乗せたところで数分もすれば時刻表無関係に出発する。そのバスに乗り遅れても次から次にバスが入り十数人乗せては出発。

スタッフと運転士が密に連絡取り融通を利かせながらじつに静かでスムーズな運行で、高速道路を静かに走るバスの中に居てこんな優雅さは広島だけ、ほかの国にもないといつも実感できて幸福な気持ちになります。

融通ということではフランス人もで、ドイツ人やイギリス人にはないゆるさがありますが、フランス人の融通は広島のきめこまかさはありません。やるときはやるという情熱と集中力はすごいけれど。

しかし広島の人にはフランスに行くと馴染んで居心地がいいという人が多い。広島のわたしの知人はむかし初めての海外旅行でヨーロッパに行き、ウイーンに着いて、ドイツからフランスに入ったとたんに「フランスに入るとホッとする」と言ったものです。

わたしもヨーロッパのほかの国からフランスに入るとそれだけで地元に帰ったような気がする。都市や村の穏やかな風景の印象もあるのですが、一因としてどこか広島人とフランス人には融通、ゆるさで通じる部分がある。社会のやわらかな雰囲気が似ている。人同士、アイコンタクトで余計なことをしない冷めた感覚も同じです。

ところが東京や東日本の人は「フランスフランス」と憧れながら実際にフランス観光に行くと、「どうもフランスは苦手。イギリスやドイツの方がいい」と言う人が多い。

「融通」ということに関し、ここでドイツ人、イギリス人、フランス人の例え話をします。若いころにわたしが実際に経験したことを元にしたたとえです。

むかしはユースホステルを利用した若者の旅行が流行っていましたが、ユースホステルには門限がありました。夜遅く門限を過ぎて帰ったときにどうなるかというたとえです。

ドイツでは規則が絶対なので門限を過ぎて帰ると入口に鍵がかかり入れません。ドアをノックしても反応がなく路頭に迷うことになります。日本では考えられない本当の話です(ただしドイツ人は順守できない規則や法律は作りません)。

イギリスだとノックしたらドアの向こうのスタッフが「門限を過ぎているから開けられない」とわざとらしく大声で言う。入れてもらえないのでドアの前で途方にくれると、しばらくして音もなくドアが開き、ひそひそ声で「ほかの宿泊者に気づかれないように入れ」と言われる。

フランスだと、門限はあってなきがごとしです。

日本だと「次回から気をつけて」と注意されてから入れてもらえるでしょう。

広島人とは何かといういわゆる「広島本」が次々出版されています。懲りずに繰り返し出るのはそれが売れるからでしょうが、安芸の広島と備後を一緒にしていることでそもそも意味のある内容ではないことがわかります。

そしてどの本にも必ず広島人の性格を「新し物好き」、「熱しやすく冷めやすい」と書いてある。必ず書いてあるから定説のようになっているが、これはほんとうでしょうか。

東京の人の新し物好きはわかります。なにか新しいものが出ると、すぐに話題にしたり、いち早く取り入れようとする東京の人の情熱をわたしはよく知っています。日本の各地でビジネスをした経験がありますが、東京でとくにビジネスをしましたから。

それに比べると伝統の文化を持つ関西人は新しいものに慎重で、とくに広島の人は新しいものが出ても広く普及するまでは信用しないという傾向があります。一歩引いてほかの地方と同じ程度としても、どうして広島だけが「新し物好き」という先入観になったのでしょうか。

東京からすれば「地方」の代表が広島で、「地方」の人は新し物好きのはずという先入観があって、広島のメディアもそれを鵜呑みにするからではないかとわたしは思います。

東京には全国の人が集まっていますが、いまも東北、関東甲信越と北海道ルーツの人が多く、「東京人」の中心は東日本です。首都東京に住んでいるというプライドを持ちながら歴史も文化もある西日本にひそかにコンプレックのある微妙な心理があり、「地方」にすこしゆがんだ優越感と先入観を持つのですが、その場合の「地方」代表が広島です。

札幌や仙台、新潟は東京の身内で「地方」にはできず、京都にはコンプレックスを持っているし、大阪、名古屋は大都会で地方ではなく(それでも東京メディアは大阪名古屋も見下げたような扱いをしますが)、福岡は遠すぎるしちょっとわからないという感覚で、広島が、「中央」の東京に対し「地方」の象徴で代表になるのです。

むかし「仁義なき戦い」という広島のヤクザを扱った実録映画が大ヒットしたり、広島カープもあって目立っているということも地方代表の一因でしょう。

「東京」の人が転勤などで広島に移住するととんでもなく田舎だと思っていたところが、予想外に洗練されていて戸惑うのですが、洗練されていることさえ分からない東日本人も多くいます。

たとえば書いたように公園の滑り台で並ばない広島を「ひどい田舎だ」と思い怒る人がいる。あるいは今はそうでもないが、ほかの都会に比べファストフード店やチェーン店が広島には少なかったのを洗練ではなく「遅れている」と考える東日本の人が多かった。

あるいはまた広島には大都会なのにテーマパークの類が一切なく、そのことも「遅れている」と考える人がいる。

プロ野球の巨人と広島は同じセ・リーグですから、「東京」対「地方」として巨人広島戦は盛り上がり、アンチ巨人の東京人は阪神や中日ではなく広島を応援する仕組みです。

「熱しやすく冷めやすい」についてですが、これもどうでしょうか。ほかから広島に来ると意外に覚めた風土なのでオヤッと思われるのですが、もともと浄土真宗の風土でお祭りも少なくイベントで盛り上がることもなかった「地方」です。

コンサートなどで広島のオーディエンスはアーチストに評判がいいらしいが、過度にノリすぎず、ステージと息が合うかららしい。

そんな広島なので何をもって「熱しやすい」のかまったく不明で、けっきょく広島カープの応援のイメージだけなのかもしれません。

しかし広島カープは広島の軸ではないし、プロ野球の応援ならどこも同じです(広島カープが、企業でなく市民が原爆の焦土から立ち上げたプロ野球球団だったので盛り上がった時代のあったのは事実です)。

広島の人はずっと冷めているのです。

作家の大田洋子は自らの被爆体験を書いた「屍の街」の初めに広島人気質をつぎのように書いています。

「人柄はどこか、風光と同じように明るいけれども、投げやりで、非社交的である。軽く舌の先でものを云っているような地方弁のひびきは、東北弁の重厚さに比べて対蹠的である。けれども、こちらがとくべつなにかを考えたり、深入りしさえしなければ、気候風土のいい明るい街で物質も豊かでいいところだった」。

彼女は東京生まれの東京育ちだから客観的な感想で、まさに広島の人の真髄を言い当てている。けれどすこし前までの広島の知識人ならだれもが感じている気質でした。広島の人を熱しやすいなどとはだれひとり考えなかったものです。

ちなみに広島の人は議論を好まないし政治の話もしません。東京で居酒屋などに行くと大人が政治の話で盛り上がっていることが多く、なんだかくだらない話をしているなあと思うことがあります。

広島は明治政府以来長州閥毛利のルーツでもあるので政治的な風土なのですが人は政治に冷めています。今も原爆の被爆者も多いけれど、体験したものであるからこそ反核平和については語りません。

メディアが被爆者の代表のように扱う被爆団体の代表の人などについては一般の被爆者は冷めた目で見て避ける傾向が強い。

原爆に関しても広島カープにしても格好のイジリ材料にしているのはテレビや新聞のメディアです。

広島カープの話が出たついでにカープのことを書きましょう。広島といえばカープ、カープといえば広島のように言われ、世に多い広島本でもカープを論ずるのでここでも触れますが、じつは広島に居るとカープを意識することはほとんどありません。

わたしの周囲にカープを話題にする人はいないし、それはわたしの周囲が特殊なだけかもしれませんが、広島の町のふだんはカープ色があまりない。メディアが勝手に盛り上げているだけの気がします。熱烈なカープファンはいますが、それは広島に特別なものではありませんから。

それならなぜ広島カープだけが話題にされるかといえば先に書いたようにアンチ巨人のシンボルだからでしょう。

むかしはプロ野球選手に広島出身が多かったのは事実で、それで戦後、広島市民が独自の球団を持とうとしたのでしょうし、すこし前まではサッカーでも陸上でも水泳でも広島出身の選手だらけでした。このごろは言われなくなりましたが広島は日本有数の「スポーツ県」とも「教育県」とも呼ばれていたものです。

どうして広島がスポーツ先進県だったかという理由で、瀬戸内海で温暖な気候だからなどと言われたこともありますが、それなら岡山や愛媛、香川も同じですがそれがスポーツ先進と聞いたことはない。

戦前の広島に高等師範学校があったからという説は信用性があります。高等師範は日本にふたつしかなく東京は戦後、東京教育大学になり移転して今は筑波大学です。

広島の高等師範は戦後広島大学になりました(これも東広島市に移転している)。東京の高等師範に比べ、広島の高等師範は理論より実践に重点があり、スポーツにも力を入れたのでさまざまな新しいスポーツが広島で盛んだったという話は一理あります。

スポーツの話が出たついでに芸能にも触れますが、芸能人を圧倒的に出している地方県は福岡県で決まりですが、広島出身の歌手俳優タレントもすごく多い。しかし福岡出身の芸能人ほど目立ちません。

両県の風土雰囲気がまるで違うのがおもしろいところです。福岡の芸能人は一生懸命で必死感のある人が多い。広島の場合はやぶ睨みといいますか、本道をすこしはずし、まったりというタイプです。例を挙げろといえばいくらでも挙げられるがきりがないから書きません。

広島人気質の作家ならすぐにひとり挙げられます。阿川弘之氏で、といっても、いまでは娘さんの阿川佐和子さんのほうが有名かもしれませんが。

夏目漱石は典型的な江戸っ子と言われ、そういう面もあるのでしょうが、東京の人にしてはやぶ睨みで「余裕派」とも言われる独自路線に広島人に通じるものを感じることがある。

偶然でしょうが漱石の妻は広島人です。ただし彼女(鏡子)じしんは両親が国会議事堂勤めの官吏だったため東京生まれで、親が根からの広島人です。鏡子さんは明治の人にして自由な人で漱石は恐妻家とも言われていましたが、漱石自身は鏡子さんを悪く言っていません。

漱石が弟子のように可愛がった画家の津田青楓の妻も広島の竹原の人で、津田はものすごい恐妻家と言われていました。

漱石の集まりの木曜会で、だれか青楓の妻を叱りに行けという話になり、漱石の弟子の鈴木三重吉が代表で青楓の妻敏子さんのところに乗り込んだらしいのですが、三重吉も広島の人ですから敏子さんと盛り上がってしまい、ミイラ取りがミイラになったとか。

恐妻家というより自由で開明的な広島のお嬢さんと東京男のギャップだったのかもしれない。漱石はそういう女の人が好きだったのですが。

敏子が夫と子を日本に残して単身フランスに勉強に行くとき、漱石の家に挨拶に行くと(大正時代の話です)漱石は留守で鏡子さんが応接し、敏子が「フランスで頑張ってきます」と言うと、鏡子さんは「それはあなたの勝手」と言ったそうです。そのホンネの言葉に敏子さんは励まされたとか。

どうして広島の安芸人に独特の風土があるのか最後に書きたいのに理由はよくわかりません。同じ安芸でも内陸は山陰の文化の影響も強く、瀬戸内海沿岸とはすこし違う。しかし瀬戸内海も安芸は山口や備後、岡山、愛媛とも違う。

独特な広島の理由の一つで考えられるのは、近代国家としての日本は長州閥の明治政府で発展したことですが、長州の毛利のルーツが広島の安芸で、帝都東京と広島に太いパイプがあり広島湾を明治政府が重視していたのは事実です。

とくに海軍と陸軍の一大拠点でした。それを支える経済基盤も早くから整備されていました。それでミニ東京かといえばそうではなく、東京と瀬戸内海の風土との融合があるのです。瀬戸内海が東京に影響したかもしれないくらい。

明治以降広島湾は日本陸軍の兵站(流通)の拠点でした。古代以来瀬戸内海は流通の拠点ですから理にかなっています。広島でベーカリーや精肉や乳製品の技術が先進していたのも兵站と無関係ではなく、衣服や自動車、造船の産業も関連していました。

カルビーのえびせんも最初は陸軍の糧秣廠だった赤レンガ工場で作られていましたが、ついでに人の味覚について触れてみると、むかしは関西人からすれば東京の外食はまずくて食べられないという風評でした。

それがここ何十年かのあいだに関西の影響で東京の味は劇的に薄味洗練になっています。逆に広島市の外食の味はほかからの影響で濃くなっている。全国的な味の均一化なのですが、瀬戸内海の島の生まれで超薄味味覚のわたしには外食が、なかなか食べられなくなりました。とくに和食系のものは。

糸引き納豆を関西の人が食べ始めたのはここ二三十年で、いまも納豆を食べられないという関西人は居るのですが、西日本なのに広島には納豆が昔から有り、わたしも幼時から大好きでした(そのころは藁苞納豆でした)。

これも戦前の軍事と関連があるのではと思うのですが、いまもわたしは「広島納豆」(商品名です)がいちばん正統の味で美味しいと思っており、納豆はそれしか食べません。

広島本では必ずお好み焼きのことを書いているので味覚の話のついでに触れますが、わたしのように根からの広島の人にはお好み焼きがあまりに日常的でありふれたものだったため、全国的に有名になった二三十年前、不思議な違和感があったものです。

お好み焼きのルーツは戦前の「一銭洋食」だと必ず書かれ語られますが、これはどうでしょうか。すくなくとも広島でも内陸ではなく瀬戸内の食べ物なのは確実です。

わたしの幼時、六十年近く前には今のお好み焼きと同じものが家の周囲にすでに有り、今もですが島に行けばそこらじゅうにお好み焼き屋があって、近所の人が正方形の鉄板を囲みイタリアのバルのような雰囲気があったものです。ただしそのころは麺を入れないのがふつうで、麺入りはちょっと高級で贅沢と思っていました。

瀬戸内には昔から小麦文化が有り、うどんを打ってよく食べていましたし、島にはキャベツ畑も多く島の人は好きだったので小麦粉をクレープにしてキャベツを入れるのは瀬戸内海の島嶼部の発想です。味の決め手が魚粉であることでもわかるように。

すこし甘辛い「お好みソース」も温暖な温州みかんの風土と関連があると思います。香港などマンダリンな南方の味覚に通じるからです。

短冊型の「味付け海苔」も「ふりかけ」も広島で遠い昔に発明されたものですが(そのことを広島の人が知らないのも驚きですが)、意外なことに味付け海苔の「味」に醤油はいっさい使われず、これもマンダリンな味覚で、お好み焼きとの共通点があります。

四十年前に初めて香港に行ったとき、広島の味覚のルーツが隠れていると思ったくらいです。

先日、知人が広島に来られどうしてもお好み焼きを食べたいと言い、わたしがここしか行かないという店が二軒ともに休みだったため、有名店ですがオーソドックスなお好み焼きの店に案内しました。

すると店主が、「お好み焼きは大阪のも広島のも韓国のチヂミがルーツです」と言うのでわたしはのけぞりそうになりました。何の根拠があるのか問うのもおとなげないので客の手前、黙っていましたが、観光客も少なくない店で店主が日々トンデモ説を流布するのが少し残念でした。私には一銭洋食ルーツ説さえ違和感があるくらいなのにです。

いまも広島のむかしながらのお好み焼き屋に行きたければ江田島能美島などに行けばよく、広島市内なら海が近い吉島光南地区などにゆけば小さな店が星の数ほどあります。

長州閥毛利の本拠としての広島を書きましたが、戦国時代の大名の中でいちばん経済力のあったのが広島の毛利で、それは瀬戸内海の流通に支えられた原資本主義というようなものでした。

それで戦国期の城としては最大クラスの広島城を建造した毛利輝元も戦争に関心がなく、関ヶ原の戦いでも西軍総大将なのに大阪城から動かなかったくらいですが(家康とのあいだに密約があったと言われます)、あとでとんでもないことになるとは思ってもみなかったのです。その二百五十年後に政権を取り戻したわけですが。

江戸時代の安芸地方広島藩は浅野藩ですが、幕末にどういう立場だったかといえば名目上は幕府寄りながら、幕府長州の「長州戦争」の主戦場が広島西郊なのに幕府に一切協力せず中立を保っていました。

戦国以来毛利の流通ネットワークを支えていたのは大阪にあった本願寺の門徒のネットです。広島の安芸に独特の精神風土に「安芸門徒」の歴史があるのは無視できないかもしれません。

戦国時代以来広島の安芸は浄土真宗の牙城でした。浄土真宗では北陸の「加賀門徒」と広島の「安芸門徒」が有名ですが、前者は大谷派で政治的(親鸞の著作の多い五木寛之氏は加賀の真宗です)、広島は本願寺派で原理主義です。

加賀門徒は蓮如や親鸞の個人崇拝をしますが広島はしません。祈りもしません。寺に行くのは「参り」に行くので「祈り」ではない。祈らないからお守り御札の類は一切ありません。観音も地蔵もありません。

広島県をドライブして路傍に地蔵が立つようになれば備後福山藩に入った証拠です。年中行事や祭りもしませんし、善悪の判断もしません。

仏教に神は居ませんから価値観のすべては相対で、何が善で何が悪か、だれにも決められない。人としての資質を高めるよりほかないという結論です。

広島の暖かくも冷めた感覚(言葉としては矛盾ですが)は安芸門徒の風土と無関係ではないかもしれません。

(心臓都市より)







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photo by Rei Matsuda


タンタンミリュー
(真津田嶺)

ヨーロッパで人気の「タンタンの冒険」がCGで映画化され(スピ ルバーグ)日本でも公開されるとテレビで知って書きたくなりまし た。

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テレビに登場したタレントに「タンタンを知らなかった」という人が居て驚いたのですが、ヨーロッパでは日本で言えば鉄腕アトムや ドラエモンどころではない存在のタンタンをぼくは日本語版が出る前から好きだったので、その影響で今は三十代後半の長女もタンタンオタクだったほど。過去に何度も実写版で映画化(日本未公開))もされているのです。

フレンチコミックの最高傑作です。作者のエルジェはベルギー人(フランス語圏)で、少年記者タンタンの活躍を第二次大戦前から戦後も描き続け、世界中の多くの人に読み継がれて、とくにヨーロッパで子どもから老人まで愛されている。

子どもより大人が見て読んで痛快な絵の美しさと濃密なストーリーを持っています。細部にわたり丁寧に描かれ、車のマニアにも船のマニアにも飛行機のマニアにも納得のシリーズです。ベルギーは海洋国家で、どちらかというと陸上より海洋の冒険のほうが中心なのですが。

ためしに十数冊あるハードカバーのシリーズから手に取ったのを見たら「ビーカー教授事件」の巻でどうやら1960年ごろの話らしく、自動車はぞろぞろ出てきますが乗用車では軍用車みたいな初期2CV、これも装甲車みたいな初期型ランドローバー、セダンではベンツやシトロエンのトラクシオンアヴァンやシムカ、ワーゲン、ローバー。

なぜ分かるかといえばコミックをルーペで拡大してみればエンブレムや社名が読めるから。テールフィンのアメ車、ライレーらしいクーペ、バストラックもルノーやいろいろ。

バルカン半島の架空の社会主義国が舞台で、オートバイは水平対向の上にもうひとつシリンダーを載せた三角配置の三気筒エンジンを積んだ大型バイク、イタリアっぽい形のスマートな戦車も登場するし、ボート、古風なヘリコプター、旅客機はマーチンのプロペラ機です。名は分からないが尾翼がV形の軽飛行機も。

つぎに手に取ったのは南米が舞台の「太陽の神殿」でしたが、アミカールのレーシングカーが登場します。なぜぼくにアミカールがわかったかといえば特徴的なグリルの形をラルティーグの写真集で見て知っていたから。

十数年前に日本各地でラルティーグの写真展が開かれたときには、東京のスノブな業界人周辺でラルティーグを語る人がやたらに居たものです。ラルティーグはエルジェと同時代人で、ヨーロッパのセレブ文化の最も輝いていた二十世紀前半の典型的なフランス富裕層の坊ちゃんでした。

遊んで暮らせる身分でタンタンのように濃密な人生を送りながら自動車、グライダー、船で遊んで天才的な写真を多く残しています(同時期の似たようなセレブに「星の王子様」を書いたサンテグジュペリが居ます)。

ラルティーグの乗った車は創生期ルノーやプジョーのスポーツカーや王様車のイスパノスイザ、それからアミカール。当時の貴族車はみんな屋根無しで、それで女たちもGT(大旅行)をしていたので、いったいどういうことなのだろうと思うが、ヨットやボートのイメージなのでしょうか。

閑話休題。エルジェの描くタンタンの凄さを象徴する巻はシリーズの中でも傑作と言われる1936年出版の「青い蓮」。これは上海を舞台にした活劇ですが、日本軍が上海を占領していた時期に同時進行の形で書かれ世界中で読まれたという恐るべきコミックです。

それでいて政治的偏見はいっさいなく日本のみを悪く描いているわけではない。そのころパリの中国人留学生に心の親友が居たエルジェは、彼からの情報で海外勢力占領下の中国人たちをヒューマンに描きました。

ミツヒラトという名の日本人麻薬シンジケートの黒幕は登場します。名前がミツイ、ミツビシと天皇ヒロヒトから取ったのは確実で、ミツヒラトの姿が昭和天皇を思わせることもあって、名作でヨーロッパでは人気のこの巻だけ出版元の福音館はなかなか日本語版を出さずにいました。

しかしミツヒラトに対抗するイギリス人麻薬シンジケートの黒幕や白人だといって威張り散らすアメリカ人らしい男なども描いており、当時の上海の状況を事実に近く客観的に中立に描いている点も貴重です。

粗暴な日本軍の軍人も描いていますが、劇中登場する日本軍の装甲車を模型にしたものはタンタングッズの中でも「タンタンの月世界旅行」に登場するロケットなどと並んで人気なのです。高価でぼくは買えません。タンタングッズは、デフォルメの美しさがアートになっている。

さてここに書きたかったことはいつもタンタンのそばに居る「スノーウィ」という犬についてです。硬毛のフォックステリアで雪のように白いのでスノーウィというおもしろくもなんともない名がつけられていますが、フランス語の原語版ではじつは「ミリュー」という名で、このことは重要です。

ミリューはフランス語で「中間、環境、雰囲気」という意味がある。いつもそばに居るということでそんな名にしたのでしょう。ぼくがミリューという名を凄いなと思うのは、日本人にはなんでもなくて欧米人にはなかった価値観を「ミリュー」が表している気がするから。人と自然のあいまいな関係。

日本人には人と動物の関係も人と自然の間にもグレーゾーンが存在し、中間がある。欧米人にはそれがないんです。動物は動物で人間の僕(しもべ)にすぎない。しかしエルジェはミリューと名づけた犬を僕のようには描いていない。

鉄腕アトムやドラエモンが日本独特のキャラクターで世界中で人気になったのは、ロボットを人間ではなく機械でもない第三の存在として描いたから。タンタンの「ミリュー」も犬でも人でもない「なにか」として描かれている。エルジェのヒューマニズムには欧米的ではないなにかしらがあり、そのことが魅力です。欧米的でないならアジア的かといえばそうでもなく、もっと包括的で普遍的ななにかです。

西欧の価値観で男と女は磁石のSとNのようにくっついたり離れたりの関係でした。ヒトと自然の関係もです。しかし日本人の価値観では人と人の間に何かがあるのです(そういえばぼくの若いころ、精神科医の木村敏氏が「人と人の間」というベストセラーになった日本人論でそれを分析したものです)。

欧米人は同じ意見を持つ人どうしでなければ集団で居られません。だから集団で居ることが少ない。日本人は異なる個性のまま集団で居ることができる。人と人の間に「雰囲気」というクッションがあるから。ミリューです。

宮島に行けばあいまいな存在で鹿が居ます。その中途半端さがいけないという人がこのごろ居る。鹿は野生だから山に返さねばという人も居ますが、それは欧米由来の発想です。

そうではないミリューのあいまいさを今では欧米人も意識するようになっているので、そのことが彼の地でいま革命的に意識されるエコロジーの本質であるようにぼくには思われます。

犬でも人でもない「なにか」として描かれた犬ではぼくはスヌーピーを連想する。タンタンとは対照的にアメコミのカリスマのスヌーピーですが、四コマ新聞マンガとして連載され始めたころはビーグルをモデルにした写実的な犬で、ヒーローでも何でもなかった。

それが何十年と連載されるうち、初めとは似ても似つかない姿になり、言動も犬でも人でもなくて神に近い存在になった。

シュルツはドイツ系移民の子で、スヌーピーにはプロテスタントな雰囲気も漂い、スヌーピーを神、チャーリー・ブラウンを福音者、彼の仲間たちを使徒として解説する本もあるくらいですが、シュル ツやスヌーピーのヒューマニズムは宗教の次元を超えている。

エルジェのタンタンは世界中で冒険し敵と戦いながら敵を作りません。タンタンには妙にさっぱりした優しさがある。憎しみがないから愛も語らない。ほかに言葉がないので言ってしまえばサトリのようなところがあります。

チャールズ・シュルツにもあります。スヌーピーもチャーリー・ブラウンとその仲間たちも禅問答の世界に居る。

話が車から離れてしまいました。でも、車というものがヒト科の動物にとって何かと言うことを考えるヒントになればと思います。ミリューです。

エンジン物語より

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ユリイカ2011年12月号 特集=タンタンの冒険


投稿者 kurosaka : 2018年6月29日