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なぜ名プレイヤーは名コーチになれないか

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画像出典:pixabay


スポーツでもパフォーミングアートにおいても、名選手・名演奏家がかならずしもよい指導者であるとは限らない。なぜこのようなことが起きるのでしょうか。

いろんなケースが考えられますけれども、ひとつの要因として、名プレイヤーの <すぐれた情報選択能力> を上げることができそうです。

上達する人は「無意識のうちに」良い情報を選択する。そのような能力を持っている人がどんどん上達していくというわけです。

極端に表現すれば、情報感度のいい人は特別なメソッドを必要としない。「練習」という言葉にしばられることなく、自分の心身が求めることをやっているうちに知らず知らず上達してしまうからです。

そのような人は、特定の師につくことがなくても身の回りで出会う人やモノから有益な情報を選択し、自分に合った方法を編集することができる。

そしてそのような創意工夫を重ねて名プレイヤーとなり、まったくの善意からこういう指導をするはずです。


一人の師匠やメソッドにしばられるな


と。この指導は、一般論としてはまったく正しいと筆者は考えます。

けれども同時に、それは一般人にとっては厳しすぎるとも考えます。サルトル風に表現すれば、学習者を「自由の刑」に処しているのではないでしょうか。

落語家・立川談志の言葉です。



型ができていない者が
芝居をすると型なしになる。
メチャクチャだ。

型がしっかりした奴が
オリジナリティを押し出せば
型破りになれる。


談志の言う「型」ができるまでは、一人の師、ひとつの方法に専念する。そのような学習プロセスがあり得ると筆者は考えます。

いろんな先生の指導を比較検討していいところを取るべしというアプローチは正しい。しかしそれは学習についての部分的な話であり、守破離の「離」という部分について語っているのではないでしょうか。

「全員が同じことを学ぶのはおかしい、それでは学習者が可哀想だ」という意見もよく耳にします。しかしそれもまた「離」の視点で語っているはずです。

守破離の「守」段階にある学習者にとっては、「なんでも好きな方法を採用していいよ、自分で考えて選ぶんだよ」と放り出されるほうが可哀想というのが現実でしょう。あふれんばかりの情報の海で遭難してしまいかねないからです。

守破離のプロセスを自然に体現できる者は、大多数の学習者が「破」や「離」はおろか「守」の段階で四苦八苦していることに思いが及ばない。

ここに名プレイヤーが名コーチたり得ない理由(のひとつ)があると考えるのですがいかがでしょうか。

投稿者 kurosaka : 2017年9月30日