ビル・ラットの思い出
2024年8月26日(月)にビル・ラット(Bill Lutt)が倒れ、その後息を引き取ったとの連絡が入った。弟のブライアン・ラットからの電話だった。
ビルの存在がなければ、私の人生はまったく違うものになっていただろう。
最初の出会いは1984年のことだ。UC Berkeley(カリフォルニア州立大学バークレー校)ジャズアンサンブルが来日し、私の在籍していた早稲田大学High Society Orchestraと交流演奏を行なった。この日本ツアーのマネージャーを務めていたのがビルだった。
まもなく彼はWorld Projectsという音楽プロダクションを設立し、日米の音楽交流プロジェクトを推進することとなった。大学生バンド、高校生バンドの来日公演や、日本の社会人バンドのアメリカ公演なども手がけた。
ビルが音楽グループを連れて来日するたび会いに出かけた。また、1986年に私は個人的にカリフォルニアを旅しており、そのときビル宅にホームステイもさせてもらった。
1986年にビルはハワイで環太平洋音楽祭(Pacific Basin Music Festival)を設立した。このフェスティバルは現在も続いている。そして1988年のブリスベン万博にアメリカから多くのバンドを演奏団体として送り込んだことから、ビジネスをどんどん拡大していった。
そして1990年に日本支部を開設し、私がその代表として就任することになった。同じ年にシドニーオペラハウスを会場とする国際音楽祭が始まり、これも現在まで続く息の長い企画となっている。
それから34年。日本、アメリカ、オーストラリアを中心として、ビッグバンド、吹奏楽団、合唱団、マーチングバンド、交響楽団など数多くの音楽団体の国際交流プロジェクトを進めてきた。またドイツ、スイス、中国でのプロジェクトも実現した。
2000年のシドニーオリンピックでは、開会式で2000名の国際バンドがマーチング演奏と選手団入場行進曲演奏を担当した。2001年の北京ユニバーシアード、2008年の北京オリンピックでも国際バンドの企画を実現した。
思い出を語ればキリがない。私の人生の半分以上はビル・ラットとともにあったのだから。その早すぎる死を悼み、心から冥福を祈りたい。
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投稿者 kurosaka : 2024年9月 2日